1人読書会:「居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書」東畑開人:「いる」についてとその他モヤモヤ

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「居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)」東畑 開人
医学書院(2019/2/18)

面白くはあったのだけれど、そうかな、どうだろ、と思いモヤモヤする部分も結構ある本だった。
若手心理士が沖縄のブラックデイケアに勤務して、自分自身が「ただいる」ことの難しさを実感しながらデイケアメンバーの「いる」を観察して、ケアとセラピー、いると経済的側面などについて考察する本。というのが概要。
「ただ、いる」というのは何だろうかという考察を重ねる記述を読みながら、自分自身の体験をいくつか思い出していたのだけれどまず一つは数年前にアフリカを訪れた時の話。
西アフリカのセネガルを1週間訪れ、そこで印象的だったことの一つが「なにもしない」人達が普通にいたこと。
熱い日差しが厳しいダカールで、木陰に座るおじさんたち。お喋りくらいはしてたかもしれないけど、パッと一瞬見るだけでも「なにもしてない」のが分かるのんびり感。
仕事の合間の休憩でもなく、ただただ、居て座ってるだけ、というオーラ(笑)を出しており、退屈してる訳でもなく、なにかしなきゃと思っている風でもなく、なにもしないのを恥じてる訳でもなく、自然にただ座っていたので随分と感心した(笑)
あんな風に自然に「なにもしないでいる」って、今の日本で見かけない。
(見かけたとしても、肯定的には受け取れない気がする)
翻って東京。
毎日見かけるホームレスの人がいて、割と若そうな男性なんだけど、毎日なにやら分厚い本を熱心に読み、書き込んだりメモを取ったりしていた。いつもいつも熱心に勉強しているので、「天才ホームレス現る!」か、学問を追求するあまりホームレスになったのかしら、と思っていたのだけれど、ある日、辞書を逆さのまま熱心に読んでいることに気が付き、「ああ、、、」となった。
読んでいるのではなく、読んでいるフリだった(本人的にはフリではないかもしれない)。
そう思って通りすがりに観察してみると、1人で喋ったり、明らかに精神に障害のある人で、缶集めみたいな仕事もしていないようで、ただそこに座って、時々通行人に食べ物を貰ったりしているようだった。
で、仕事もせず、なにもせずに生きているその人は、なにをしてもしなくても変わらないと思うのだけれど、「本を読む(つもり)」「勉強する(つもり)」をやっていないと、正常ではない精神でもホームレスでも、それっぽいことをやっていないと耐えられないのだろうか、何かをしていないと存在できないのだろうかと、なんだか切なくなった。
で最近、昔のサザエさんの漫画をたまたま読んだら、波平とマスオさんが夏の夕方に玄関先に縁台を持ち出して将棋を指していて、こういう生産的なことを何もしないのんびり感て最近見ないなーと思った。将棋をやっているので何もしていない訳ではないけれど、何もしてないに近いダラダラ感があり、それを当人らも周りも普通に受け入れている。
それって何なんだろう?「居るのはつらいよ」では会計的なもの(経済的合理性、生産性のことだと思う)に脅かされるという一つの考え方を提示していたが、それだけでは説明がつかない気がする。
社会の方向性が「ただ有象無象の人間が生きてる」世界から「個人個人が大事」になってしまい、ただ生きてること、ただ何もせずにいることが個人のレベルでNGになってしまったのではないか。
だから、自分探しとか人生の目的とかそういうもの探さないといけなかったり、自己肯定感が低かったりするのでは、と思ったり。
個人なんてそんな大層なものではなくて、勝手に生まれて適当に死ぬのが当然、くらいでいいと個人的には思うんだけど、少数派かもしれない。
ちなみに、セネガルのその風景を見て「セネガルで生きる方が幸せなのでは?」と私は思ったけれど現地の人にそれを言うと「ここには仕事がないから日本に行きたい」とのことで、隣の芝生なんだろうか。
その辺が本を読んで感じた違和感から、自分が思い出したり思ったこと。
あと細かいモヤモヤとしては、著者がブラック組織(デイケア)に関わってしまって失敗したという思いから、組織や社会構造への課題感ではなく、コネを利用すべきだったと反省している所は、「底辺ブラックとは本来縁遠いはずの自分」という思いが見えて良い感じはしなかった。
ハカセ号を取った自分が送迎車の運転手をしたり、お母さん仕事という専門性の無い仕事というような自虐(?)風記述も多かったので、その流れで敢えての記述なのかもしれないが、「(デイケアのメンバーさんや一般人読者を含めた)あなたたち」と「専門職の自分たち」という線引きが明確になる。
これはこの本独自の話ではないが、メンバー「さん」、利用者「さん」、「内地」というような用語も、あっち側とこっち側という線引きを必要以上に感じる。いいんだけど。
個人的な好みとしては、無理やりなハイテンション部分をカットして、ボリュームも半分か2/3くらいに絞ってくれた方が読みやすい良い本になると思うが、今の時代と私の好みが合わないだけかも。
文章的にもエピソード的にもやたら冗長なのは、「いる」とか循環する日常の辛さを実感させるためかなとも思ったけど、ここまで長くしなくても伝わる。
舞台となったデイケアが、人が入れ替わっても変わらず続くという話があったけれど、それはデイケアだけの話ではなく、一般企業やコミュニティ、社会そのものもそうだと思う。
(昔新卒で入った会社で、まだ転職する人も少なかった時代に部長が転職してしまい、私も含め部下は捨てられたような気持ちになり相当衝撃だった。が、その後も部署も会社も変わらず続くのを見て「そういうものか・・・」とある意味気付きを得た)
さっきの話にも共通するけど、実は個々人の重要性って思うほど高くないのでは。本当は重要じゃないのに重要なものぽく扱っているが故に「いる」も難しくなってるのもあるような。
先日読んだ「心病める人たち」(石川信義)では精神病院から地域に出ていくという話で、その後現在はどうなっているのだろうかと気になっていたが、その答えがさらっと書かれていたのは良かった。やはり精神病院から出て、地域でそのままは溶け込めずデイケアになり、精神病院の課題がデイケアに移っただけという話だった。切ない。
「会計」に戻って、会計云々の話は基本的に雇用者視点での見解に見えたが、経営者になっての考え方、見え方(いまは経営者もやってる人だと思う)は同じではないと思うので、今の立場でどう考えているのかも気になった。多少記述が変わるんじゃないかしら。
この本は物語なので、デイケアの体制として確立しているところに筆者が入り、その後どんどん人が辞めてすっかり風景がが変わってしまった、というストーリーにしていたが、実際は著者が入ったころのデイケアも変化の通過点に過ぎなかったんだろうし、固定化されているように思えるものも実は通過点だろうなと思う。
完全同意は出来ないけど、いろいろと考える切欠になり、本自体も面白いのでこういう世界に興味がある方にはおススメ。
(そして今、南直哉「刺さる言葉」という本を読んでいるが、この仏教的な考え方、南氏の考え方の方は「いる」についてのヒントがあるように思う。南氏の本は悩める人に非常におすすめ。

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